ピョートル1世
異母兄フョードル3世の崩御により、その外戚であるミロスラフスキー派の擁する病弱な兄イヴァンを差しおき、1682年4月ツァーリを継いだ。しかし即位後まもなく銃兵隊の反乱が起き、母方ナルイシキン家の政権が崩壊する。ミロスラフスキー派はこれに乗じてイヴァン5世をツァーリとし、ピョートルはその共同統治者に格下げされた。イヴァンの同母姉ソフィヤが、テレム宮から出て幼い2人の弟の摂政として実権を握った。ピョートルは母とともにモスクワ郊外の離宮に移り、儀式のさいのみクレムリンを訪れた。ピョートルが成長すると、ナルイシキン家などの支持派は彼の親政を望み、ソフィヤの摂政政府と対立した。1689年9月、ソフィヤは官僚、軍人、教会の支持を失ってピョートルに政府を明け渡した。
ピョートルは当初、国政を母ナタリヤらナルイシキン一族に委ね、趣味の軍事教練に熱中した。また首都近郊の外国人居留地に頻繁に出入りし、多くの外国人と親交を結んだ。スイス出身のレフォルト、下士官出身のメーンシコフを側近に取り立てたのはこの時期とされる。1694年に母が死去すると、親政を開始した。また名ばかりの共同統治者イヴァン5世の死去(1696年)で、単独統治に入った。
1697年3月から翌1698年8月まで、ピョートル1世は約250名の使節団を結成しヨーロッパに派遣、自らも偽名を使い使節団の一員となった。この使節は軍事・科学の専門技術といったヨーロッパ文明の吸収を目的としていたが、対オスマン軍事同盟のへの参加を各国に打診する外交使節をも兼ねていた。また使節の一員に身をやつしたのは、煩瑣な儀礼に縛られず自由に行動するためと、公的にはモスクワを離れていないと内外に示すためだった。主にオランダのアムステルダム(4ヶ月半)とイギリスのロンドン(3ヶ月)に長期滞在し、プロイセンのケーニヒスベルク、ドレスデン、ウィーンにも立ち寄った。
アムステルダムでは造船技術の習得に専心し、東インド会社所有の造船所で自ら船大工として働いた。病院・博物館・植物園を視察、歯科医療や人体解剖を見学した。ロンドンでも王立海軍造船所に通い、天文台・王立協会・大学・武器庫などを訪れた。また貴族院の本会議やイギリス海軍の艦隊演習も見学した。ピョートルは沢山の物産品や武器を買い集め、900人を越える軍事や技術の専門家を連れ帰って、その知識をロシア人に教え込ませた。しかし外交上の目的だった軍事同盟の呼びかけは、当時の西欧の関心がオスマン帝国よりも、近々予想されるスペイン継承戦争に集中していたため失敗した。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
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